長尾屋とは

 私はこれまで、日本の地方での商売を通して、地方創生に真摯に取り組む個人・企業と巡り会ってきました。商売において縁が一番大切であり、特に、地方で商売をする場合、地縁は不可欠です。また、先祖から継承してきた精神を大事にしている数多の地方企業の経営者とお会いする機会にも恵まれました。

 そうした中で、かつて、日本屈指の銅山であり弁柄の特産地として繁栄した備中吹屋(現:岡山県高梁市吹屋)にて、江戸時代初期より戦前まで長尾屋(本長尾屋)という屋号をたてて商売をしていた祖先の存在の偉大さに思いを馳せました。

 明治初期の日本近代化の夜明けの中、ノーブレスオブリージュ精神を抱き、私の曾祖父の佐助は、地方政治・経済に尽力すべく、岡山県会議員、成羽銀行頭取・山陽中央水電監査役など歴任し地方振興に尽力しました。その後、長尾屋は、銅の採掘量の減少、技術革新の波、金融恐慌、第二次世界大戦という激動の昭和の渦に飜弄されていきました。そして、昭和中期に、地場産業が伸銅であった埼玉県南部(朝霞市・新座市)との地縁に恵まれ、父の坦は、裸一貫から、(長尾屋の繁栄の基でもあった)銅、その後、アルミに着目し、特殊精密金型メーカーである長尾工業株式会社を起業し再起しました。

 また、激動の時代に翻弄された祖父の廉も、地域企業・寺社の顧問弁護士として再起し、桜の植樹などを通じて、地域貢献するという旦那衆の「粋」な精神を最晩年まで維持していました。そして、祖父の弟で大叔父の隆、その長女の有子は、往時の吹屋の生き字引として、吹屋の貴重な歴史・文化を後世に伝えるべく、吹屋を「ふるさと村」(重要建物保存地区)として再興し、吹屋の維持発展に大いに尽力しました。こうしたノーブレスオブリージュ・不撓不屈の精神を後世に伝承すべく、改めて、「長尾屋」という屋号を復活させようと思うに至った次第です。

 今後とも、長尾屋は、時代の変化に柔軟に対応し、社会的意義ある商売、地方に寄与できる商売の先導者として、日々精進邁進して参ります。

株式会社長尾屋 代表取締役 長尾和

長尾屋のルーツ

平安時代~安土桃山時代

 長尾性の遠祖は桓武平氏にて大庭景宗の弟景弘(長尾次郎)であり、長尾為景、景虎(後の上杉謙信)の祖である。苗字の地は、相模国高座群長尾荘(現:大船駅前)と伝わり、家紋は三頭左巴である。この一族の分かれに、「子持亀甲剣酢漿草」という特異な紋をもちいる一族が香川県本島(現:丸亀市本島)に住居していた。

 この島は、塩飽二十何島の中心であり、海賊大将宮本佐渡守、その子助左衛門、吉田彦左衛門なども住居し、かつて塩飽諸島の行政を司る勤番所、真言宗寺院十一か所などがあった。この勤番所で政務を司った年寄を祖とする宗家の一族より出たる事は確かである。本島は、塩飽水軍の本拠地であり、造船も盛んであったので、中国山地に産する鉄及び吹屋の銅は必需品であった。そのため、これらの品を買付けに来たことが契機となり、吹屋に定住することになったと考えられる。

江戸時代初期~中期

 長尾孫左衛門が「長尾屋」という屋号にて商売で財を成し、吹屋の中心地である現在地に広大な屋敷を構えたのは享保年間(約300年前)徳川八代将軍吉宗の時代である(中庭の松の樹齢と合致)。爾来、中国山地のタタラでとれる鉄の問屋として、備前福岡の刀鍛冶へ、そして、備後鞆、讃岐琴平などの鍛冶屋へ販売して栄えた。

石燈籠
備後は鞆に遺された石燈籠には、寄進者として長尾佐助の名が認められる

江戸時代後期~明治時代初期

 江戸時代後期に家督を継いだ十三代佐助(彦十、亀遊、龍泉院)が、長尾屋の中興の祖となった。夫婦共々信仰心厚く、祖父母父母の供養塔を延命寺に建て、また、妻であるアサは、晩年、一字一石の写経をなし供養塔を墓地に建て、金毘羅宮吉備津神社、玉島円通寺などに寄進の碑が残されている。また、苗字帯刀を許され、町年寄として行政に参与した文書も残っている。1848年(嘉永元年)より吉岡銅山を請負稼業するほか、弁柄株二株、酒造株二株買収し、長男の良助(仙風)に家督を統括させ、林三郎に諸事、市三郎に外交と三兄弟を督励し、家業大いに上る。

 その後、林三郎に酒造株、市三郎に弁柄株を与え、新長尾、東長尾を立家させたという。この頃、庭瀬藩三宅家へ婿入りした長男の糺の請をいれ庭瀬藩費をも負担した文書が残されている。

明治時代以降

 良助の長男である佐助(青楓)は、1882年(明治14年)に家督を相続し、岡山県会議員、(玉島乙島地干拓の先駆者で著名な坂田貢が1900年5月に設立した)成羽銀行頭取、岡山縣農産株式会社取締役、山陽中央水電株式会社監査役、および、吹屋町長などを歴任し、近代日本資本主義の黎明期に活躍した。

大日本勧業博覧会褒状

 なお、佐助(青楓)の先妻くまは、福山藩の家老(大参事)の岡田吉顕(大審院判事、郡長(深津・沼隈・安那三郡(後、深安・沼隈二郡)、阿部家家令)の娘である。佐助(青楓)の長男廉は弁護士、三男隆は吹屋ふるさと村初代村長(重要建物保存地区)、四男正は官僚となり、激動の昭和の戦前戦後を駆け抜けた。廉の次男坦は、昭和中期に、長尾屋ゆかりの銅に着目し、特殊精密金型メーカーの長尾工業株式会社を創業した。

現在